城跡巡りの続きです。
あと100mで本丸跡に到着します。

道の左手は「天守閣跡」、右手は「本丸跡」があります。
まずは、天守閣跡に向かいます。


天守閣跡は、結構広かったです。
2024.1.1の「能登半島地震」の影響で、天守閣跡にクラック(ひび割れ)が発生
したようです。立ち入り禁止になっている場所が、ありました。

それ以外の被害はなかったようで、良かったです。
いよいよ、本丸跡へ・・・。


標高約180メートルの春日山に築かれた春日山城は、別名「鉢ヶ峰城」(はちが
みねじょう)ともいいます。本丸からは、かつての越後府中(直江津)、周辺の
山々の支城や日本海が、一望できます。




素晴らしい眺めです。
城地としての広さは、東西・南北ともに2キロメートルほどで、山全体に沢山の
曲輪が配置されていて、規模の雄大さでも、全国屈指の名城といわれています。
1段下がった「井戸曲輪」には、「井戸丸跡」がありました。


標高150mの場所にあり、廃城から、400年余りを経ても、今なお、水が湧出ている
大井戸。直径は10mほどあります。春日山城が、山城として、最適な地に造られた
ことを教えてくれていますね・・・。でも、どのようにして水が湧出ている場所を、
探し当てたのでしょうね・・・。


行った時は、草が生い茂っており、水が少ししか見えませんでしたが、草が少ない
時は、しっかり水が見えるようです。
井戸から、一旦下り、また少し登った所に、「鐘楼跡」がありました。
何も残ってはいませんでした。

御成街道まで下って、次は「上杉景勝屋敷跡」に向かいます。


御成街道は、謙信と交流のあった関白・近衛前嗣(さきつぐ)が通ったことが、
由来となっています。
「上杉景勝屋敷跡」に着きました。
他の場所に比べて、結構な広さがありました。


御成街道を通って、「二の丸跡」「三の丸跡」に向かいます。


「二の丸」は、本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲うように造られ、本丸の警護
を担う重要な場所だったようです。
「三の丸跡」に向かう途中に、カラムシが生えていました。
上杉謙信公の財政を支えたと言われる、「越後上布」の原料として珍重された青苧
(あおそ)は、このカラムシの茎の繊維のことです。

道を下ると、「三の丸跡」と「米蔵跡」「上杉三郎景虎屋敷跡」が見えてきました。




上杉三郎景虎は、小田原の北条氏康の7男で、上杉氏と北条氏の同盟締結の際に、
謙信公の養子となった武将です。謙信公から自分の名前を与えるなどの、破格の
待遇を受けていましたが、謙信公の死後、跡目を争った「御館の乱」で敗れ、悲運
の死を遂げた人物です。

さあ、帰りましょう。

道路に出る所に、手書きの看板があります。

「登り口」とは?・・・。
こちらから、廻れば、楽だったのにー・・・。
次回の参考にしましょう。

振り返ってみると、ほんとに、山城だったのですね・・・。

売店まで下りてきました。

売店前には、昭和44年の大河ドラマ「天と地と」放映にあたり制作された、上杉
謙信公の銅像があります。


像の高さは、305㎝、重さは800㎏とのことです。
眼光鋭く、凛々しい感じがします。
さあ、神社前の長い階段を下って帰りましょう。
思いがけず、結構きつい山登りとなりましたが、色々見どころが満載で、勉強に
なりました。
次回は、売店前を通って、登ることにしようと、硬く心に誓いました。
長い間お付き合いいただきまして、ありがとうございました。
春日城跡巡りは、終了です。