桜の季節になると、毎年訪れている福島県。
「滝桜」をはじめ有名な1本桜が数多くあり、名もなき桜もあちこちに見られて桜一色に染まる「うつくしま福島」。
例年、1本桜を観にあちこちに出かけていましたが、今回は長野旅行と季節がかぶってしまったこともあり、今まで見ていなかった桜を求めて、白河市や郡山市などへ、1泊2日の旅行に行ってきました。(4.12~4.13撮影)
まず訪れたのは福島県白河市にある「南湖公園」。
公園の中心を占める池沼は、東西690m、南北370m、面積約177,000haの大きさがあります。先に「南湖公園鬼越駐車場」に車を停め散策しました。

桜並木が続いていて気持ちが良いです。


ここからは、池の様子や対岸の景色が良く見えます。


桜の木も沢山あり、美しく咲いていました。



人もさほど多くないので、ゆっくりと過ごすことが出来ます。
道に沿って池を一周しても約2㎞位なのですが、車で来ていたため対岸まで車で移動しました。
「千世の堤」脇の駐車場に車を停めました。

「千世の堤」は、17世紀中頃に白河藩主本多忠義(ほんだただよし)が「大沼土手」を築きましたが、その後修繕されず荒れはてていたものを、享和元年(1801)に松平定信(まつだいらさだのぶ)が大沼土手を利用した築堤工事を行い「千世の堤」と命名したそうです。


南湖は、寛政の改革で知られる白河藩主松平定信により、身分の差に関係なく誰もが楽しめる「士民共楽」という理念のもと、享和元年(1801)に築造されました。
当時の庭園は大名屋敷内などに造られ、庶民は基本的に立ち入ることができませんでしたが、南湖には垣根がなく、身分の差が厳しい江戸時代にいつでも誰でも訪れることのできる画期的なものだったとのことです。
「南湖」という名称は、唐の詩人李白の詩「南湖秋水夜無煙(なんこしゅうすいよるけむりなし)」から、そして小峰城の南側に位置していたことに由来するといわれています。
また、湖水は灌漑用水、水練・操船訓練として利用され、造成工事は当時の領民の救済事業としての性格も持っていました。明治に入り公園制度の発足に伴い、明治13年(1880)に「南湖公園」として開設されたとのことです。
目の前に南湖が広がり、遠くには雪を被った那須連山が見えます。

木道を通り、景色を楽しみながらほとりを歩いて行きましょう。

ほとりには桜の木が植えられていて、楽しみながら歩くことが出来ます。

暫くするとボート乗り場がありましたが、今日はお休みでした。ボートに乗って景色を見るのも楽しそうですね。残念・・・。

「南湖神社」に素晴らしい桜があるとのことでしたので、行ってみます。

入り口には「松平定信(白河楽翁)」の像が建っています。

松平定信は、江戸幕府8代将軍徳川吉宗の孫で、白河藩松平家の養子となり、26歳で白河藩主となりました(白河楽翁の名はこれに因む)。天明の大飢饉の際には、自ら率先して倹約に努め、すぐさま領民を救う食料援助策を行ったため、白河藩からは飢饉による死者を一人も出さなかったと伝えられています。定信のこうした手腕が評価され、11代将軍徳川家斉のもとで老中となり、寛政の改革を行い幕政の立て直しに尽力した素晴らしい方とのことです。
「南湖神社」は、大正11年(1922)、松平定信を敬愛した渋沢栄一の多大なる援助のもとに創建されました。
神社参道には沢山の桜が咲いています。「楽翁桜祭」が行われていました。

道脇にひときわ大きな桜の木が見えます。



これが「楽翁桜」なのですね。松平定信が植えたと伝えられる樹齢200年以上の御神木とのことです。樹形も美しく樹勢も旺盛です。


直ぐ近くには、松平定信ゆかりの茶室「松風亭羅月庵」があります。


内部見学は、有料で神社に事前に連絡すれば見れるようですが、今回はパスしました。
南湖神社拝殿にお参り。人が多すぎたので撮影は思うようにできませんでした。

お参りの後、参道のお店で、体調を崩している娘にお守りを買ってきました。

「翠楽園」の看板があったので、立ち寄ってみました。


広い芝生広場が広がります。
池泉回遊式日本庭園の「翠楽園」は中も見ることが出来るのですが、時間も気になったので今回は入館しませんでした。


(白河市HPより借用)
芝生広場の一角には松平定信公の坐像と「兼六園菊桜」があります。


この兼六園菊桜は、定信が兼六園という名前を加賀藩十二代藩主前田斉広公の依頼を受けて命名したり、兼六園の扁額を書いたという縁もあり白河市に寄贈されたようです。
既に葉桜でしたが、満開の頃には1つの花に300枚もの花弁をつけ、まるで小菊のように咲くとのことでした。
さあ戻りましょう。
南湖公園はとても美しく、まだまだすべてを見ることは出来ていませんが、見所の多い素晴らしい公園でした。