秋になると、思い出す花に、つわぶきの花があります。
つわぶきの花が、群生して咲く寺泊。

今年は、いつ頃咲くかなと、調べたら、「つわぶき祭り」が、10/13~11/4まで、
開催されているということで、10/21に、訪れてみました。

今回は、「聚感園(しゅうかんえん)」の駐車場に車を停めて、散策することに
しました。


「聚感園」は、北陸の豪族五十嵐氏の邸宅跡です。
五十嵐氏は、寺泊近在126町村を支配していたと伝えられる、界隈きっての権力者
でした。承久3年(1221年)に、佐渡へ遷御された順徳上皇が滞留された際の行在所
跡や、文治3年(1187年)に、源義経主従が都落ちして、寺泊に漂着した際に、五十嵐
邸にしばらく逗留したと伝えられ、園内には、弁慶が義経のために、掘ったと言わ
れる井戸があります。




遺跡前の広場や、道脇に、つわぶきの花が咲いているのですが、ほとんどが、蕾
の状態でした。つわぶき祭りが開催されて、1週間も経つのに、まだ、この状態
とは思いませんでした。

時々、咲いているつわぶきもありました。


まずは、脇の坂を上って、神社仏閣巡りをしましょう。

それにしても、寺泊は、神社仏閣の数が多いのには、驚かされます。
調べてみると、なんとなく理由がわかってきました。
寺泊は、江戸時代(1603–1867)以前から交易と宗教活動の拠点となっていました。
本州の海岸線で、佐渡島に最も近い場所に位置する寺泊は、島民と日本の架け橋
としての役割を果たしていました。北前船も、盛んに往来していました。また、
信濃(現・長野)への北国街道と、三国街道(現・群馬県高崎方面)の2つの主要
な交易路も、寺泊から商業の中心地へと続いていました。船乗りや漁師は、海に出
る前に祈りを捧げるため、また、旅人は旅の安全を祈るために、寺泊には、多くの
神社仏閣が建てられたのでしょう。
「ロマンス街道」と呼ばれる道を歩いて、神社仏閣を見て行きましょう。

まず最初に見えてきたのは「生福寺」。
ここには、「浜辺のメロディー」が流れるオルゴール塔があり、街の人々に時刻を
知らせています。 


次いで、「白山媛神社」。


白山媛神社は、 海上安全にゆかりのある二柱の女性神(イザナミノミコト、クク
リヒメノミコト)を祀った神社で、船乗りや漁師は、海に出る前にここで祈りを
捧げることが多いそうです。
境内には、「船絵馬収蔵庫」があり、昭和45年に、国の重要民俗文化財に指定され
た、52枚の船絵馬が奉納されています。寺泊観光協会に予約し見学することができ
るそうです。

(長岡観光ナビより)
白山媛神社の境内には、「二面神社」があります。

二面神社は、明徳2年(1391)5月、土地の漁師平三郎が、夢枕に立った神様のお告
げにより、海上に漂流する御神体を、取り上げ、ここに祭ったのが始まりと、いわ
れています。御神体は、横39cm、縦82cmの板に、網を持って魚を獲る、西洋人
と思われる人物像を透かし彫りにしたもので、表裏一体の男女の像だそうです。
西洋船の船首につけられていた船神様や、船の欄干の一部ではないかと、言われて
います。(中は見れませんでした)
道なりに、歩いていくと、階段があったので、降りてみました。





照明寺は、弘法大師作の聖観音像を祀る古刹。越後3番観音様礼所です。
照明寺の創建は、平安時代後期の永承2年(1047年)に、高野山竜光院の栄秀和尚
が開山したと伝えられています。伝承によると栄秀の霊夢に、観音菩薩の化身が立
ち、その御告げにより、尊像を背負って全国を巡錫し、当地を訪れると、景勝地で
あることから、霊地と悟り、草庵を設けて尊像を安置したそうです。
平安時代末期には、源義経が、兄である源頼朝に追われ、京から平泉に逃避する際
当寺に訪れたとも。戦国時代には、上杉謙信が戦勝祈願に訪れたとも、伝えられて
いるそうです。
照明寺の境内には、簡素な風情をたたえる「密蔵院」があります。
禅宗の僧侶であり、歌人としても有名な良寛は、生涯のうち3度(45、70、72歳)
密蔵院に、仮住まいをしました。
密蔵院は、天保12年(1840年)に焼失し、現在の建物は、昭和33年(1958年)に
茶室風に再建されたものです。



照明寺の敷地は、階段を下って、続きます。

ここにも、社殿や祠(?)がありましたが、どういう建物かは、解りませんでした。


趣のある鐘楼が、境内にありました。

まだまだ、沢山の神社仏閣があるようですが、今回は、この位にして、つわぶきを
見に行きましょう。
次回に続けます。