新発田市にある「市島邸」。
緑が美しい時期になると良く訪れる場所です。
「豪農市島の青梅 摘み取り体験」が、6月13日から6月22日まで開催されるのに
合わせて訪れてみました。(6.13撮影)



市島家の発祥の地は、丹波国氷上郡市島村(現兵庫県丹波市市島町)で、慶長3年
(1598年)に加賀大聖寺を治めていた溝口氏の新発田移封に伴い、それに追従し
新発田へ移り住みました。
宗家は、居を五十公野(現新発田市)、次いで水原と移しましたが、水原時代は
福島潟の干拓を中心に蒲原平野の開発に努め、ついには北越有数の千町歩地主と
呼ばれる巨大地主、豪農となりました。その後、戊辰の役の際に、水原の邸宅は
焼失したため、七代目徳次郎(静月)が明治9年、現在の地に新たな邸宅を造営
し移り住みました。それが現在の市島邸です。
邸宅の敷地は約8000坪に及び、建物の大半は明治初期の住宅建築です。それを取り
囲むようにして回遊式の庭園が広がっています。1962年に「市島家住宅」として
「表門」は通れませんので、「門番所(受付)」から入ります。
青梅摘み取り体験を含む入場料は630円ですが、JAF会員は560円でした。
受付を出るとすぐに「玄関」前の庭が見えます。

左手に屋敷の玄関が見えます。

ここからは入れないので、奥の門を潜って中に入っていきます。

門を潜ると、右手に「前土蔵」が見えてきます。


土蔵前のこの大甕は、市島家の大地主時代に、番頭をはじめ使用人が50人余りも
おり、当時の大台所の水甕として使われたものとのことです。
橋が架かっていましたが、水は流れていませんでした。
左手には新座敷と渡廊下が見えます。


そのまま奥に進むと、「湖月亭」がありました。

現在は資料館として使われていますが、もともとは「天王蔵」と呼ばれた米蔵で
米3000俵の保管が出来ました。市島家はこのような米蔵を、地方に大小20か所程
所有していたようです。(中も観ましたが今回は載せません)
そのまま道なりに進み、新座敷に向かう廊下側の玄関から入ります。


庭に面して長い廊下が続きます。

廊下左手には、新座敷がありました。
新座敷からも庭がきれいに見えます。


右手には「水月庵」があります。


「水月庵」は池に架した6畳と4畳半の数奇屋で、明治9年の造営時に、当主が風月を
楽しみ、時に賓客の接待にあてた場所とのことです。
狭い渡り廊下を通って水月庵へ。




落ち着いた雰囲気で、庭園を一望できるよう柱がない造りになっています。
また池の上に建っていて、庭を真近に観ることができ、美しい庭園に心が癒さ
れます。
廊下に戻り、さらに廊下を進むと、左手に玄関が見えます。
奥に見えるのは「表門」です。
この玄関は、当主と奥様、賓客専用とのことです。

玄関を通り過ぎると、書斎と帳場があります。
書斎は市島邸唯一の洋間で、図書館としても使われていたそうです。




この帳場で、色々な取引がなされていたのでしょうね・・・。
御用のある方たちは、この土間のくぐり戸から出入りしていたようです。

帳場の近くには、番頭さんたちのお部屋もあります。
番頭さん達は、多い時で30名ほどいたとのこと。
お金や重要な書類を扱う仕事場のため、番頭さん達は、教養のある精鋭の方達
ばかりでした。明治期には番頭という形態を、事務職員とし、重要な仕事を与え、
会社組織のようにしたとのことです。当主からも大切にされ、近くに住まいを与え
られ、通いで働いていたとのことです。


ここからも、お庭が見えますね・・・。
広い邸宅なので、まだまだ廻りきれていません。
長くなったので、次回に続けます。